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2007年12月

2007年12月29日 (土)

トヨタ・パブリカ(UP10系)

国民車構想
1955年(S30)に当時の通商産業省(通産省)で立案された国民車構想で通産省が想定した「国民車」の性能は、
・ 最高時速100km以上。
・ 乗車定員4名、または2名と100kg以上の貨物が積める。
・ 平らな道路で、時速60kmのとき、1リットルの燃料で30km以上走れる。
・ 大がかりな修理をしなくても10万km以上走れる。
・ 価格は月産2000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下。
・ エンジン排気量は350~500cc、車重は400kg以下。

というものであったが、自動車好きの官僚が一つのプランとして提示したものに過ぎず、技術・コストの両面から実現するのは困難で現実味を欠く、というのが当時の自動車業界における大方の批評であった。それでもこの企画に刺激されていくつかのメーカーで小型車開発が行われることになった。
トヨタも国民車構想をそのまま実現するという考え方は持っていなかったが、技術開発推進の見地から、1956年(S31)7月より、従前の自社最小クラスである1000cc級(トヨタでは当時1500cc車への切り替えで生産が途絶えていたが、翌1957年(S32)に初代コロナが再発売されている)より更に小型の車の試作を開始した。

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試作過程

当初の計画では、当時の専務であった豊田英二の陣頭指揮の下、駆動方式として前輪駆動(FF)を採用することとなり、一次試作車も完成したが、当時の技術的限界から前輪駆動システムにはトラブルが続出した。
後を受けた主査の長谷川龍雄は、プロペラシャフトを介した後輪駆動(FR)方式への変更を決断した。実績のない前輪駆動車は彼に与えられた僅か2年の開発期間では不可能であるとの結論からである。当時「500cc車には税制上の特典を設ける」という行政の触れ込みがあったものの、既に高速道路の建設が開始された高速化時代にあっては、あまりに非力で対応できないとの判断で、700ccエンジン搭載とした(500cc車優遇は結局実現しなかった)。
搭載されたのは697cc、空冷2気筒OHV・水平対向で28馬力を発する新開発のU型エンジンである。トヨタ車で初めての空冷エンジンは、BMWやツェンダップなどのドイツ製オートバイ用水平対向2気筒エンジンを参考にした設計で、バルブ部の調整機構として日本初の油圧式ラッシュアジャスターを採用しメンテナンスフリーを実現し、軽量かつ簡潔、しかもコンパクトであった。このエンジンの採用で、後輪駆動車ながら前輪駆動車と大差ない居住空間を得ることができたが、空冷エンジン故の騒音などハンデキャップも抱えることになった。
車体は軽量なフル・モノコック構造、大きなプレス部材を用いて生産性を高める配慮が為されていたが、やや華奢な印象があった。2ドア3ボックスのセダン形ボディを標準とし、大人4人を載せる最低限のスペースを確保していた(それでも当時の軽乗用車よりはゆとりがあり、さらに独立したトランクスペースを設けていたのは長所であった)。サスペンションは前輪ダブルウィッシュボーン式サスペンション、後輪縦置き半楕円リーフ・リジッドの当時ごくコンベンショナルなレイアウトであるが、前輪サスペンションのスプリングに縦置きトーションバーを用いていたのが意欲的である。
発売と失敗
車名である「パブリカ」は、当時流行していた一般公募による。パブリック・カー(Public car)からの造語であり、国民車に相応しい名であるとされた。1961年(S36)6月発売当時、セダン型の価格は38.9万円であった。広告コピーは「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」であった。しかし、発売時のパブリカは機能性とコストダウンを重んじて徹底した簡素化を図った結果、外装にはメッキ部品がほとんどなく、ラジオ・ヒーターなどの快適装備はもちろん、フェンダーミラーすら装備されていないという無い物づくしなありさまであった。性能や実用性には優れていたものの、そのあまりの質素さゆえに、発売当初から多くの大衆層には支持されず、販売台数は低迷した

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■Meg...

そんなパブリカが、初めての自家用車として我が家にやってきたのは、たしか...1965年(S41)、自分が小学校5,6年生の頃だったと思う。こんな国民車構想があって開発されたクルマだなんてことはつゆ知らずに、当時、単身赴任の親父の大切な足だったパブリカを、日曜日に一生懸命に洗車してあげたことを思い出します。まさに、「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」ですな(⌒_⌒)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AB

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2007年12月17日 (月)

思い出のカローラ

カローラ40年の軌跡を振り返る (ホビダスオートより) http://www.hobidas.com/auto/special/article/71335.html
【初代カローラ 1966-1970】
■日本の国民車構想をキッカケに生まれて日本のモータリゼーション黎明期を支えたトヨタ・パブリカだったが、その後に競合車が登場したこともあって、トヨタはさらにハイレベルな“新時代の大衆車”の開発を決意する。パブリカの開発にも携わった長谷川龍雄チーフエンジニアのもと、当時のパブリカとコロナの間を埋める1.0リッターセダンとしてカローラの開発はスタートした。
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■しかし、開発途中に日産の新大衆車(=初代サニー/1966年4月発売)が同じく1.0リッターエンジンで登場する情報を得たトヨタは急きょ、さらに高出力の1.1リッター化を決断して、1966年11月に“プラス100ccの余裕”というキャッチコピーで華々しいデビューを飾った。ご想像のとおり“プラス100cc”とは1.0リッターのサニーに対する挑戦的なキャッチコピーだった。
■その後のトヨタ車を表現する言葉として有名なった“80点主義”という開発理念は、この初代カローラの開発時に長谷川チーフエンジニアが掲げたもの。その真意は“あらゆるポイントで落第点があってはならず、80点以上でなければならない。さらにいくつかのポイントでは90点を超えるべし”という非常に厳しく野心的なものだった。つまり、後にこの言葉でトヨタ車を“突出するポイントのないクルマづくり”と揶揄することが流行したのは、実のところ、もともと崇高な理念を表す言葉だった“80点主義”の意味のすり替えにすぎない。
■当初は2ドアセダンのみでスタートしたカローラも、翌’67年5月に4ドアを追加、そしてモデルライフ後半の’69年9月には排気量を1.2リッターに拡大した。また、’69年5月にはより若々しくスポーティな2ドアクーペとして“カローラ・スプリンター”が登場している。(文:佐野弘宗) 
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SPEC(1969年式ハイ・デラックス)
  ・全長×全幅×全高:3855×1485×1380mm
  ・ホイールベース:2285mm
  ・車輌重量:730kg ・最小回転半径:4.55m
  ・エンジン:1.1直4OHV(64ps)
  ・車輌本体価格(当時):52万5000円
Meg
我が家の初代乗用車(トヨタパプリカ)に代えてこのクルマがやってきたのは、1969年(S45)で僕が中学2年生の頃。自宅前の坂道を駆け上がって我が家の玄関に到着した真っ白な2ドアノッチバックセダンがとても美しく眩しく見えました。
その時の、親父よりももっと嬉しそうな顔をしていた自動車屋さんの笑顔がとても印象に残っています。

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